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映像作品というのは、いってみれば足し算の表現世界。クローズアップや短いカットを多用して意図的にイメージを強調したり、ついつい絵になるもの、主張の強いモチーフばかりをカメラで追いがちです。僕自身も何の疑問も持たずに、そうした作品づくりを行ってきました。その大きな転機となったのが、神戸の建築家の設計した山荘のコンセプト映像「六甲の山荘」です。
最初は山荘のデザインをどう映像で伝えるか、という狙いで撮影していたんですが、どうも納得できる映像にならない。悩んでいたある日、とつぜん雨が降り出してきた。屋根や草木を濡らす雨を眺めているうちに、重要なのは内部のデザインではなく、むしろ建築物をとりまく背景であり、外の景色を眺める「装置」としての山荘、という視点ではないだろうか。そう気づいたんですね。それで四季ごとに周囲の風景を撮りはじめたんですが、撮影を進めるうち、自然こそ最高の演出家なんだと思い知らされました。雲が動き、風が吹き、葉や木々がそよぎ、木漏れ日が微妙に変化する。何ひとつ留まっているものはない。自然の営みそのものがドラマなんですね。ですから僕も、作為を放棄し、できるだけ自然に委ねた映像表現を試みました。結局は18分の作品を完成させるのに3年もの歳月を費やしたんですが、この撮影を通じて、過剰な演出や意図をいかに削ぎ落としていくか、という引き算の表現手法を学びました。
日本の風景や建物を撮り続けていて思うのは、人や背景を抜きに建築物を語っても意味がないということです。建築とは人や背景とまじわってはじめて成り立つもの。やや固い表現をするなら、人が周囲の自然との関係性を見つめ直すきっかけとなる装置、といってもいいでしょう。とくに仕切りがなく、外と内の垣根が曖昧な日本の家屋は、その意味合いが強いように思います。そんな空間だからこそ、季節や時間の移ろいを繊細に受け止める日本人の情緒や情感が育まれてきたのではないでしょうか。
僕が映像として撮っているのは、昔はごく普通に目にし耳にしていた、日常的な情景です。決して特別な空間や風景ではありませんし、映像でメッセージを押しつけるつもりもありません。ただ身近なところにこんなに美しいものがあるということを、いまの時代、多くの人が忘れていたり見失っている。僕の作品を観た人が、そのことに気づき、何かを自由に発見してくれればうれしいですね。日本人とは何か、などと声高に叫ばなくとも、日常の情景や営みにふれた時、しぜんによびさまされるものがある。それがつまりは日本人のアイデンティティではないかという気がします。
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